誇りある仕事を 
価値ある会社を

代表取締役 吉村 和久

創業から3代目社長就任までの道のり

東京オリンピックが開催された翌年の1965年に私は生まれました。
そしてその年に私の父は吉村組を創業します。
元来、厳格な父は、職人さんたちをまるで我が子のように遠慮なく鍛えました。仕事の取り組み方から日頃の生活態度まで、怠惰、粗忽、安逸な職人に父は鉄拳制裁も辞さないという厳しいものでした。
父を頂点とする「鉄の規律」を備えた吉村組の軍団は、顧客のニーズを満たし、順調に業績を上げていきます。

バブル景気を迎えて、さらに会社は成長を続けるものの1987年に父が亡くなりました。その後、兄が会社を承継します。私は大学に通いながら、人手の足りない家業を手伝うことになります。
そして1990年にバブル崩壊。急減速する日本経済に飲み込まれるかのように、我が社もみるみるうちに売上げが減少していきます。そんななか、長く病に臥せていた兄も1994年に亡くなってしまいました。工事単価の下落や受注量減少による収益の悪化。バブル時におこなった4億円の不動産投資の返済。古参社員との確執。そんな過酷な環境に翻弄されながら、私は29歳の時に、望まずながら3代目社長に就任いたしました。それから始まったのは悪夢のような毎日なのでした。

存続させるという使命

それからは、毎月の借金を返すのが私の仕事となりました。
今月もやっと返済できたと思ったら、また翌月の資金手当に奔走しなければならない。ひと月がこれほど短く感じたことはありませんでした。
もともと自分には経営者の資質が足りないのかもしれないという不安に加え、幹部社員さんからの信頼も得られず、孤軍奮闘する苦しい日々が続きましたが、だけどあきらめる訳にはいかないという決意だけはありました。
やるだけやって途中で倒れたらそれまでと覚悟が決まった頃、以前勤めていたひとりの職人さんが戻ってきて、もう一度働きたいと私に訴えました。他の会社で勤めてみて、吉村組の良さが分かったと言うのです。
その時が、我が社には他にはない価値があるんだと思えた瞬間でした。私の仕事は借金を返すことだけではない。社員さんや職人さんたちの居場所を守ためにも、会社を存続させるのが私の使命だと気づいたのでした。

職人として、そして専門工事会社としての誇り

2011年3月11日、東日本大震災が発生します。
名古屋に拠点を置く顧客のゼネコン様が、仙台市郊外で食品工場を建設工事を行っていました。地震が起こった3時間後、「工事を担当する現場監督さんと連絡が取れない、なんとか救出してほしい」と顧客幹部様よりご依頼をいただきました。翌日の12日、弊社の4人の鳶職人がスコップやバール、毛布、ブルーシート、カッパ、長靴、食料、燃料や水など、思いつくだけの物資をトラック2台に積み込み、現地に乗り込んで行きました。かつてない甚大な災害で、電話も繋がらないような状況にもかかわらず、4人の鳶職さんの勇気ある行動は職人の真価を映し出すものだったのです。数日後、職人さんたちは無事にお客様を探し出し、名古屋へ帰ってくることができました。

その年の暮れ、私はひとりの職人と共に東北に視察に行きました。災害から半年以上を経てもなお癒されない街の姿を見て、呆然と立ち尽くし、涙が止まりませんでした。私たちの力を少しでも東北のお役に立てたいという一念が体に満ち溢れたのです。
翌年の春、東北事務所を開設。現地責任者含めて7名という小さな組織でしたが、傷んだ住居の修理や店舗の新築工事などに携わり、顧客だけでなく、その施設を使用するお施主様や利用者様から直接「ありがとう」と言ってもらえたことは私たちの誇りになっています。
株式会社吉村組は、これからも社会から必要とされる組織であり続け、強く美しい街づくりのお役に立ちたいと願っています。

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吉村組では、共に働き、学び、高みを目指す仲間を募集しています。
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